わーっと引いて、引くというのは向こうに原因があるのではなく、こちら側がちょっと違ったというか、認識の違いで、今までのもういいやとはちょっと違って、図工室の秘密感が、わたしの中で随分決定打だったというか、それも個人の認識で違いがあるといえば言えるのかもしれないけど、そんなことをしちゃう先生は嫌い、とちょっと違う、軽蔑、不潔、不信感、どれだろう、裏切り者、敵、敵だとわたしの中で認識され直している。好きの反対は嫌いとかそういうかわいい話ではなくて、もしかしたら、先生の中で、わたしはずっと敵だったのかもしれない。売られたケンカは買わずに買う方だから、受けてたとうか、みたいな戦闘モードに入りそう。

仕返しモードに入ったわたしは、ますます醜く映るだろう。もしかしたら性格的に、ご機嫌とりしてくるかもしれない。クリスマス会もそうだったんじゃないか。あれもこの後もわたしに不快な思いをさせてくるだろう。

先生に黙っていた苦言を、年配の先生方がしているようにしようか。わたしもその人達と同じグループに入れられることになる。

仲間だと思って接していたのだけどな。

度重なる心の負債は不快だっただろう。

一番の罪は、先生の要らない感情で子どもたちに不都合が起こっていること。わたしはそれを体を張ってとめるではなくて、子どもたちを目の前で救ってやる。それはたぶんすでに実行中。それは先生の心には響かなかったのだな。あれを無視し続ける。最後までいなかったことにする。わたしにとってのコロナウイルスだ。

 


バルコニーのあれどころじゃなくて、図工室、それを見られてバツの悪い先生なのかもしれない、そんな先生を、週明けからはそれもいないものとして、学校を粛々と過ごすのだ。それは3月まで、ずっと。子どもたちは救ってあげる。あなたは救ってあげない。もう言葉を交わさない。

 


月曜、学校休みたいなぁ。

月曜も、火曜も水曜も。先生たちに心配されたい。

今日は朝ランのせいもあるのか、1日ぼんやり過ごした。スーパーでは、自分が落ち込んでいると知った。人と目を合わせる気にならない。興味が湧かない。心が浮き立つものがなく、買い物がただ義務になった。

去年の3月ぐらいからのブログを振り返った。

ずっと愛されてなかったことを知った。

わたしはイケメンがいる日常を選んだに過ぎなかった。

 


子ども、作ろうかなぁ。

モラトリアムの終焉だ。