わたしでも、先生の叱責の声が耳から離れないというか、教室の近くを通ると大きな怖い声を聞く気がするというか、配慮と防衛が混ざって、おどおどしていたところがあった。

 


昨日は怒り、という視点から先生の行動をずっと考えていて、また違う切り口で先生を見た気がした。

 


あのKくんを怒った後わたしに話しにきたのは、恐らく欲しい言葉をもらいたかった、というやつなのかもしれない。それ以外の言葉は受けつけなさそうな雰囲気も確かにあった。

もしあの言葉が当たっていたとしたら、嬉しいけど、同時にどんどん期待が高くなり、外れた時のがっかり感が大きくなることが怖いなと思った。

 


しばらく感じていたひどい疲れ。

怒っている先生に対する気疲れだと思った。

自分で思っているより、神経をつかっていたのかもしれない。もちろん、そればっかりじゃなくて、日々の鉄棒の筋肉痛とか、生理前後の不調とかもあったと思う。

先生が子どもたちに強く怒ると、それを一緒に受けるわたしも、自分が何かを怒られていると思ったり、子どもたちがどう受けとっているかを配慮したり、先生のご機嫌伺いをしたり。

怒っている本人も、きっとダメージを受けている。子どもたちへの怒りと、それがやがて自分に返ってくること。

その繰り返しが最近は見られていて、子どもたちはまぁ懲りずに怒られるようなことをする生き物だし、先生の怒りはこれからもエスカレートしていくのだと思う。

 


少し気になるのは、わたしへの攻撃をやや感じる時があること。わたしが甘んじて先生を受け入れるから、攻撃的な気持ちがわたしに向く。わたしはそれを嬉しいと感じていたのだけど、後に何も残らない、使い捨て的な役割になることはわたしも望んでいない。でも先生の性格的に、拒否や否定をしてしまえば、わたしへのシャッターを下ろすだけ。まぁすでに下ろされてる感あるけど。

望まない関係にはなりたくない。先生が蔑む、じゃなくて好感を持たれる存在でありたいのだ。

 


一方で、先生が本当の自分を見せてくれていると感じる。その結果が悲しい気持ちになることは、やっぱり避けたいと思うのだ。自分を出して、受け入れてもらう。それは生きる力になる。

先輩はもういないけど、わたしの中で今も力になっている。

 


わたしはこれぐらいじゃ、先生のことを軽蔑しない。先生のいいところの芯をとらえて伝えたい。いいところ見せてもらおう、これからも。