わりかし元気だ。

実家で目が覚めて思う。

41になっても、傷心して親に慰めてもらおうとか、そんな暮らしをしているとは思っていなかった。まぁ、40過ぎても恋はするもんな。校長先生あたりは、例えばわたしに好意があったとして、どのように処理するのだろうか。何事も諦めというやつか。わたしもそうだ。諦めていたのは結構前からだ。

 


先生の冷たいラインが、まぁ冷たいんだけど、背中を押してくれてるように見えてきた。きっとわたしのためよねぇ。がんばれよと。がんばるんでしょと。最後ぐらい既読スルーにしてやりたかったのだけど、最後のスタンプは犬がボールを咥えてきて嬉しそうなやつで、なんやねんってなんか腹立ってたんだけど、どっちやねんって、わたしが犬なのか、先生が犬なのか。考えたところ、先生が犬なのかなと。先生だって送り出してほしいのだと。ボールを投げてくれよと。ある程度自分の人生を過ごしてくると。わたしは最初、ボールを投げるスタンプでもないかなぁと探していたのだ。でもいいのが見つからなかったから、そのままにしていて、ふざけたスタンプはあまり返さない方がいいかなと思って、先生も怒っていると思っていたから。でもわたしの答えは、ボールなんか投げてあげない、になったんだと思う。遊んでほしそうな犬に、ボールを投げないというSっぷり。かつてクラスのKくんを授業に向かわせた技だぜ。わたしは未練を持ってほしくて無視したのだけど。先生がしきりに言っていた、たぶんわたしの挨拶に欠けている、それぞれ次のところでがんばりましょうの言葉。それはわたしのビジョンには少しない言葉だった。とにかく、ここでの恩返し、それに偽りはなかったから。先生は言わないわたしにスッキリしていなかったかもしれない。ラインでも、言ってやらないさ。そんな表現をひとつできた気がして、少し楽しんだのかもしれない。

 


精神的だったとはいえ、ハグはわたしにとって少し残るものとなっている。

軽い、わたしからだけのハグだったのに、反芻する。反芻すると、過大なものになり、意味をもたせ、相手にも影響があったのではないかと思う。

もう一度したいとか、会いたくなってしまうとかまでの力はないけど、次する時のハードルが下がり、今度会った時、どんなふうにちょっかいかけようか、などと妄想が膨らんでしまうのだ。

 


日一日と食欲が回復し、自分のしたいことに目が向き、それは先生から離れたかったわたしの再生で、ありのまま、わたしは自分を受け入れている。

 


旦那がくれた、自分のことよく分かってるんだな、という言葉。

客観的に見て、そう伝わるんだなと理解し、いい言葉をくれたなと思う。

ありがたいなぁと思っている。

 


今日もたくさん考えてしまったけど、自分のことをがんばる時間を増やした。お腹も空いた。眠たいし。母親に元気をもらっている。